渋谷桜丘が生まれ変わる前に

目次

はじめに

しばらくブログから遠ざかっていました。書くことを辞めたのではなく、別の作業をしています。自分の内側で大切に育てたい言葉たちを、今は公開しない形で貯めているのと同時に、自分の言葉の貯金を増やしているところです。もう少し綺麗な形に出来たら、公開したいと思っています。

 

2019年の始まり

正月休みの中、とある記事を読み、いてもたってもいられず衝き動かされる思いで今日行ってきました。渋谷桜丘、明日から渋谷再開発計画のため、この街で閉鎖や取り壊しが始まります。聞いてはいましたし、確かに周知もされていました。でも、2020年オリンピックが来年だということと同様、時の流れを意識することが出来ていませんでした。

 

渋谷再開発計画

東急電鉄が進めている、2027年まで続く渋谷駅周辺の再開発計画です。再開発の規模はかつてないほど巨大で、この街はどうなるんだろうと思わせてくれます。

 

そのうち、この桜丘の再開発工事は、明日から2023年までとなっており、工事準備が進んでいます。

 

今日も、作業員の方が現場確認に来ていたのを多く見ました。また、警備員の方も閉店・移転がほとんど完了している区画を定期的に巡回していました。

 

急に人だけがいなくなってしまった街のように、それこそ廃墟とも言える雰囲気となってしまいました。

 

今後、この周辺の道は車や人が入ることもできなくなるような案内も出ていました。

 

渋谷回顧録

物心ついたときから、渋谷は常に変わり続けていく印象がありました。反して、生まれ育ったこの街の景色はいつも思い出の中にだけ残っていく、淋しさと常に背中合わせで進化を続けるこの街で生きてきました。

 

かつて、京王井の頭線の渋谷駅は道玄坂方面にあり、その駅を囲むようにバスロータリーが楕円形にあったのを記憶しています。そこから東急百貨店へ続く道の途中で、祖父が買ってくれたフルーツサンドイッチを売っていたキオスクと、ディーゼルエンジンと谷に舞い込む風が連れてくる埃が混じりあったような匂いが、幼い頃の記憶でよく残っています。

 

桜丘との思い出

この渋谷桜丘は、そんな幼い頃の記憶より更にあと、僕が成人してからの分岐点を迎えた場所であり、その街が生まれ変わる前に残しておきたい風景だったのです。桜丘といえば、居酒屋が昔から多くあり、ギターを始めた思春期の頃から定期的に訪れた楽器屋さん、出演したこともあるライブハウスが多くある場所でした。

 

一方通行で、退避する場所がなかったので、写真は撮れませんでしたが、上の写真の恵比寿方向にあるSHIBUYA DESEOも含め、数多くの音楽関連施設が再開発対象地域に含まれていました。

 

2000年代

2000年代に入ると、今日の再開発を先導するようにセルリアンタワーが竣工しました。Googleが日本オフィスの初拠点として話題になった場所でした。

 

僕はミュージシャンとサラリーマンの間、楽曲制作をしながら、セルリアンタワーに入居する会社でITエンジニア生活を始めていました。働き始めてまだ日も浅い頃、会社には認められていない自転車通勤をし、違法駐輪として撤去されたこともありました。数少ない駐輪場を通勤時間に取り合わなければならず、見つからなければこの街で生まれ育ってもいない係員に撤去される覚悟をしなければならない、見つかったとしても地元を自転車で行くだけで駐輪にお金がかかる。今でこそ駐輪場が整備されてきましたが、当時はどこか歪んだ考えになる場所でした。

 

空が2回見えた日

性懲りもなく自転車通勤を続けていたある日のこと、自転車を止めようと国道246号線沿いにある駐輪場の空きを探していくつか渡り歩き、辿り着いたのがこの場所でした。

 

そして、この場所で国道246号線から左折してきたトラックに跳ね飛ばされました。横断歩道を徐行する中で、ノンブレーキで左折してくる大きなトラックが左側に見えた時、本当に死ぬ時は走馬灯のようにスローモーションになるのだと感じました。あ、ここで死ぬんだ、と思った次の瞬間、空が2回見えたあと、マンホールに落ち、その先に転がっていきました。トラックから降りてきた運転手が僕を車道から歩道に引き寄せ、「今救急車を呼ぶからな!」と言って乗り込んだトラックが去っていきました。

 

記憶より記録

僕は記憶力が良いことに自信がありました。それなのに、トラックのナンバーは何度覚えようとしても記憶からこぼれ落ちるようでした。

 

数分後、通りがかりの自転車便のお兄さんが僕の存在に気付き、呼んでくれた救急車で搬送されました。緊急搬送された病院でのMRI、CTを含めた検査後、幸か不幸か、骨への異常がないということで入院不可という診断が下されました。自宅まで帰る自信がないです、と返答したのですが、入院受け入れの条件として決められているということで、決定は変えられないということでした。

 

大げさではなく這いつくばってタクシーに乗り、渋谷警察署へ行きました。「え?あれだけ自転車が損傷していて、入院させてくれなかったの?」と担当警察官の方に言われたのには、自分でもビックリしました。更に残念なことに、取り調べ調書作成時には、トラックのナンバーは既に忘れていました。

 

わずかな希望

渋谷警察署での事情聴取後、ひき逃げの証拠品でもある自転車のへしゃり具合と僕の這いつくばり方を見た警察官の方が、「本当はいけないんだけれど、この状態で家まで気をつけて帰ってね、というのは無理だと思うからね・・・。」と、パトカーに自転車を積んで自宅まで送ってくださいました。今だったら、何かとうるさい世の中ですが、この街に生まれてよかったな、と少しだけ希望を感じた日になりました。

 

翌日、犯人逮捕

翌日、警察官の方から嬉しいお知らせがありました。下の写真で、松屋の箇所には以前コンビニエンスストアがありました。(確か、AM/PMだったと思います)

 

警察の方で、事故現場に当時あった入り口に設置されている防犯カメラの映像から、ひき逃げしたトラックの特徴を割り出してくれたのです。

 

居酒屋等に食材等を卸しているルート便であったことがわかり、該当と思われるトラックを割り出し、運転手を問い詰めたところ、ひき逃げを自供したため、逮捕されたということでした。トラックを見た時点で、フロントグリルの凹みの深さも尋常ではなく、その形状も被害にあった僕の自転車と形が一致したということで逃れられなかっただろうということでした。

 

後遺症

一方、事故に遭った僕自身はというと、上述の通り、幸いにも骨には異常がなく、外傷程度で済んでいたと思いました。ところが、翌日にやってきた事故の痛みは徐々に回復するも、1週間が経っても治らない箇所がありました。

 

それは、今日も後遺症として残ってしまっている首へのダメージでした。

 

経済的ではなく、物理的に首が回らなくなってしまったのです。これ以降、MRIもCTも何度も撮り直しましたが、首が縦横30度以上回ることはありませんでした。半年間、整形外科に通いましたが理由もわからず、首の可動域は縦横共に改善せず、故に顔は常に青ざめたようになり、ギターを弾くなどということは出来なくなってしまいました。保険会社結局は症状固定ということで妥協することになりました。

 

ミュージシャン完全引退

この事故の2ヶ月後、食事が共に供されるような有名なジャズのライブハウスの仕事のバンドマスターとしての仕事を控えていました。それにもかかわらず、ギターが見える角度に首を曲げることはおろか、指を動かせば神経に触るような痛みが突発的に発生してしまうため、プロとしてのレベルで引くことはできなくなっていました。

 

強烈な現実を自覚はしても、認めたくない。その思いは離れることなく本番当日まであり、強い痛み止めの注射と共に無理にステージに立ちました。単なる希望的な未来を願っただけの結末は、プロとしての品質は一切保てずボロボロ、お仕事を頂いた方にも顔向け出来ないほどでした。

 

これを期に、ギターを弾く、というプロからは身を引くことにしました。

 

頚痛脱臼?

後遺症とも呼べる症状は、ギターを弾くことはおろか、デスクワークすら続けられない日々となってきていました。藁をもすがる思いで紹介を受けた整体師の方に診ていただいたところ、「あんた、こりゃ頚椎一つ外れているよ。MRIやCTじゃ見つからん」という診断をいただきました。

 

頚椎、一つ外れてても大丈夫なんだろうか?

 

大丈夫じゃないのは実感していましたが、「頚椎一つ外れている」という言葉の強さからすると、まだマシな方と思ってしまいました。

 

さらに怖かったのは、「動かさんで良かった、無理に首を動かして悪化していたら半身不随だよ」という説明。このまま、このあとの人生をこの体調と曲がらない首、いつ悪化するかわからない恐怖と過ごすよりは、と治してほしいとお願いしました。

 

整体で改善

1時間の整体を受け、筋弛緩を行ったあと、いよいよ最大の山場がやってきました。

 

「頚椎入れるから、力抜いてね。ここで、力んだり、反発して失敗したら半身不随だからね。」

 

と言われると、なおさら力の抜き方を忘れたような、本当にこれでよかったのか不安になってしまいます。とにかく無心でいようと、数分任せていたままの状態から突然、コキッとしていただいた首はその瞬間から回るようになりました。即実感できる治療経験を自分ですることになるとは思ってもいませんでした。この先生に出会えてなかったから、きっと私の首は今日も回らず、海外を飛び回る仕事やギター演奏はおろか、全く別の仕事をしなければならなくなっていたかもしれません。そして、こんな人生を大きく変えた始まりが、奇しくも桜丘だったのです。

 

その後

バイク事故で亡くした先輩がいるからこそ、バイク免許は持たないと決めていました。この事件が起きるまでは。

 

にもかかわらず、この事件をきっかけにあれほどの事故でも生きているのであれば今やりたいことをやらねばと、完治後にバイクの免許を取得したのも、桜丘で起きたこの事故がきっかけでした。

 

事故現場

再開発が終われば僕が着地したマンホールが見えなくなるかもしれない、そう思って今日はこの場所を訪れたかったのです。ちなみに、わかりやすく説明すると、下の写真がその現場なのです。

 

横断歩道上のマンホールの位置付近でトラックにはねられ、最初に着地したのが左手前のマンホールです。

 

空が2回見えた日:まとめ

あまり良い話ではありませんし、天候の影響を受けやすくなったり、寝違えやすくなり、時々後遺症を感じることがありますが、それでも事故後の首よりは格段によくなっているからこそ言える、今となっては良い思い出となりました。事故を起こした側も、被害を受けた側も混乱しますが、ひき逃げはやめましょうね。

 

ダメゼッタイ!ひき逃げ、良くない!

 

よくあること:富士屋本店

さて、ここからは、桜丘でも別のお話です。

でも、こちらも事故、いや、事件と言うべきか・・・。舞台は上述の交通事故現場からほど近くに存在する、富士屋本店です。

 

30歳を越えるまではまだ入れない、そんな場所だと思っていました。当時僕はFenderに勤務していました。転職先を決断し、退職前に同僚と飲みに行くことにした日の1軒目に富士屋本店を選んだのでした。

これまでのキャリアの中で、未だに最も誇れるブランドであるFender、そのTシャツを着て富士屋本店で同僚と乾杯しました。行かれたことのある方はご存知かもしれませんが、昔から渋谷にある最も古参の立ち飲み屋の一つですし、角打のように隣のお客さまと交流がうまれるなんて普通のこと。この、初めての日も例外ではありませんでした。その模様を以下にブログ化してあります。

 

https://www.kengenius.com/review/shibuya_fujiya_what_an_incident

 

上記ブログを読んでいない場合には、ネタバレになってしまいますが、言わせてください。

 

ダメゼッタイ!お触り、良くない!

 

再開発範囲

桜丘と言っても、非常に広い範囲が再開発対象に含まれています。そのため、少し見て回ろうとバイクで行ってきました。

 

山手線沿い、桜丘側は渋谷駅から恵比寿駅方面へ、半分近くが再開発範囲になっていました。

 

このヒカリエを見上げる景色も、もしかしたらもう少しで見られなくなってしまうのかもしれませんね。

 

 

Diana +越しの風景

廃墟のような感覚と風景に出会えるとネット上でも話題になっている渋谷桜丘ですが、僕としてはここで買った音楽機材たち、過ごした時間、たくさんの思い出を残そうと思いました。平成最後の年ということで、すっかり触っていなかったトイカメラ「Diana +」を久々に引っ張り出しました。

 

Kodak破綻前の旧工場産フィルム、数年越しで引き出しから取り出し、装填しました。フィルム自体、しばらく触ってなかったので装填の仕方もググる始末。

 

 

Diana +で撮影したフィルムは、現像に出しました。写真は後日別記事で公開したいと思います。

2019/02/20 追記:Diana +現像結果

現像依頼からの返事は、残念なことに一枚も現像できるものがないという結果となってしまいました。感光してしまったのか、はたまたフィルムが古かったのか、いずれにしても残念でなりません。

 

まとめ

桜丘の反対側では、随分前に取り壊した東急百貨店跡にビルが立ち始めています。再開発後、この角度で風景を見ることは出来るのかはわかりませんが、この写真も懐かしいね、という日がくるのでしょうね。

 

再開発による取り壊し、閉鎖が始まる前の渋谷桜丘に行くことが出来て良かったです。生まれ育ち、過去どんな思い出を重ねて、そして再開発が終わる頃、僕はどうなっているだろう。今日、何を思ってここに行ったのだろう。いつかそんな話が出来るような大人になりたいものです。そして、そんな話が出来る渋谷桜丘が2023年に戻ってくることを切に願っています。

 

そのため、本ブログのタイトルに願いを込めて、「re-development」ではなく「ressurection」と書かせていただきました。

 

おまけ

桜丘から渋谷公園通りを抜け、こちらも建て直している渋谷区役所の前を通って、Fuglen Tokyoに立ち寄ることにしました。

渋谷の変遷を思いながら、エアロプレスを頂きました。

 

そういえば、高校の終わりの頃、イベント会場設営のアルバイト派遣の会社がFuglen Tokyoからすぐのところにあったなぁということを思い出しました。それと同時に、2018年の終わりには、自分が所属していた芸能事務所がなくなったことを、それとなく知ったことを思い出しました。

 

時は流れていきます。

街も人も、変わっていくのですね。

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