第4章・人生の転機:チャチャ丸といた16年間

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前章

 

日々のこと

チャチャ丸も手術からの復帰はあっという間で、それからの日々は至ってゆったりと流れていく、ものと思っていました。人生、そんなに簡単にはいかないようです。

 

相変わらず、小さな芸能事務所に所属してお仕事をわずかながら頂いていたものの、生活には程遠く、ITエンジニアとして稼ぐ日々。それは、朝起きて仕事に行って、帰ってきてチャチャ丸と散歩をし、音楽制作を続ける日々でした。同じ生活とはいえど、チャチャ丸がいることは、日々の些細なことで彩りを感じるような感覚でした。

 

例えば、機材のチェックを始めれば、僕と遊ぼうよ、と言わんばかりに機材の間に入ってきたり・・・。

 

挙句の果てには寝始めたり・・・。

 

音楽制作の時間となれば、先回りして僕の椅子にジャンプして乗っていました。

 

仕方なく、チャチャ丸を持ち上げ、座っている僕の脚の上に乗ってもらいます。音楽制作を開始すると今度はピアノを。

 

犬と生活するということは、一人とはこんなにも違うものなのかと、日々笑顔にあふれる生活を送っていました。

 

人生の転機

ある日のこと、ITエンジニアの朝は、自転車で勤務先の渋谷まで通勤していました。放置自転車で何度か撤去されたことがあり、当時は少ない自転車置場を探し、次の場所へ向かう横断歩道へ差し掛かったときでした。

 

不意に、国道246号線からノンブレーキで左折してくるトラックが見えました。

本当に死ぬ時は走馬灯のようにスローモーションになるのだと感じました。

 

「あ、ここで死ぬんだ」

 

そう思った次の瞬間、空が2回見えたあと、マンホールに落ち、その先に転がっていきました。

 

トラックから降りてきた運転手は僕を車道から歩道に引き寄せ・・・

 

今救急車を呼ぶからな!

 

と言って乗り込んだトラックが去っていきました。

 

この事故で僕は交通障害者となり、今日も後遺症として残ってしまっている首へのダメージを負いました。この事故の2ヶ月後に控えていた、食事が共に供されるような有名なジャズのライブハウスの仕事のバンドマスターとしての仕事で失敗しました。言い訳も出来ないほどに。

 

これを期に、ギターを弾く、というプロからは身を引くことにしました。

 

かなり割愛して書きましたが、この事故の詳細は以下の記事で記載しています。

よろしければご覧ください。

 

身を引く

本番のライブのあと、謝罪に回るも、一発勝負のプロの世界ではまったく意味を持ちません。終わった、という感覚が重力を増し、自分の体重を倍に感じさせるような感覚のまま、自宅に帰り着きました。

 

強く気持ちを持っていたはずでした。出迎えてくれたチャチャ丸の顔は、無邪気そのもの。シャワーを浴びて何も考えず寝てしまおうとしたものの、見つめるチャチャ丸に話しかけたらもうダメでした。一気に我慢していたものが溢れました。

 

チャチャ丸からすれば「なんだ?なんだ?」というだけの感覚だったのでしょう。ですが、徐々に理解したように、泣きはらす僕のそばにずっといてくれました。犬はやはり第六感があるのではないかと、このとき思うようになりました。5つ感覚と言葉を超えて何もかも理解してくれるような、そんな能力でもって、人間のそばにいてくれるのかもしれない、と。

 

後日身を引くにあたり、所属事務所にも挨拶に伺いました。

チャチャ丸が泣かせてくれたおかげで、さっぱりと切り替えることが出来ました。その更に後日、上述のブログにも記載していますが、頚椎(脱臼一歩手前の)捻挫は完璧といかないまでも改善しました。

 

切り替えたら一転、運良く入り込めたIT業界で成り上がると決意しました。チャチャ丸と共に。

 

第六感

IT業界で正社員となり、新しい世界での勉強と仕事という日々が始まりました。仕事に力を入れ、少しだけチャチャ丸との時間が少なくなった気もしていましたが、ここで頑張らなければ這い上がれない、という環境で一生懸命働いていました。

 

ようやく人生もこれから安定するのかな、と思ったところで父が脳梗塞になりました。職人だった父は高所に登れなくなり、奇しくも同じタイミングでプロから身を引くこととなりました。

 

そんな日々が続いていたとき、ヘビースモーカーだった父に肺がんが見つかりました。脳梗塞になってピタリとタバコは辞めたもののの、長きに渡る喫煙はゆっくりと蝕んでいたのです。

 

1つの肺胞を切除する必要があり、手術をすることなりました。

 

手術は成功

昭和の人間らしく、手術ということに抵抗があり、同時に恐怖も感じていました。簡単な手術だから大丈夫だろうと主治医の先生からも聞いていたので、心配していたのは本人だけでした。「きっと憎まれっ子世に憚るよ」なんてことを笑い話にしていました。

 

手術当日、問題なく手術が終わった、という報告を受けました。麻酔から覚め、その効果が切れ始めていた父の口から、初めて痛いという言葉を酸素マスク越しに聞きました。

 

徐々に異変

午前中には終わり、酸素マスクが外れた日曜日の昼過ぎ、徐々に父がイライラし始めました。それに加え、厳格だった父がだらしなく服をはだけさせたり、ベッドの上でも枕に足を向けたりと、奇怪な行動を取り始めました。その上、一度も言われたことのない悪態をつくような言葉が僕に向けられるようになりました。

 

父が変だ、と看護婦さんに相談しました。「入院しているとストレスで急変することもあるんですよね。大丈夫です。」という言葉しか得られず、仕方なく父の下に戻っても相変わらず態度は悪いままでした。この状態で長時間いることは辛かったので、手術で疲れたのもあるのだろうと思い、帰宅することにしました。

 

その夜

寝る前の準備をし、食事を終えたところで、わずかばかりの日本酒で父の手術成功を乾杯しました。これを飲み終わったら、明日からまた仕事もあるし、そろそろ寝よう、と。

 

そのときでした。

 

なにかが高速で、部屋を通り過ぎたような気がして、目で追いかけました。

チャチャ丸も同じように感じたようで、追いかけた方向は同じでした。チャチャ丸と顔を見合わせた瞬間、今度は別の方向からやってきて、別の方向から出ていった気がしました。チャチャ丸も、僕は同じ方向を追っていました。南から来て北に去り、今度は東から来て西へ去って行きました。

 

数秒後、電話が鳴りました。

 

23時半過ぎ、病院からの電話でした。

父が危篤である、と。

 

いつもなら毎朝の仕事に出ていくだけでも、玄関手前のドアまで来て吠えるチャチャ丸は、わずかに吠えることはあっても、吠えようとしているのを我慢しているようでした。

 

なにかを知っているように。

 

父の死

病院で再会した父は、風船人間のようでした。肺胞切除の際に縫合がしっかりとなされておらず、亀裂があったため、皮下に肺からの空気が漏れてしまっていた、ということ。そのために血圧は上昇し、脳梗塞が再発、意識不明に陥りました。一時は命を取り留めたものの、意識を戻さない父の脳梗塞は進行を続け、一ヶ月後に亡くなりました。

 

この期間、仕事を持ち込み、1日のほとんどをICU待機室で過ごしました。

 

チャチャ丸といる時間の方が残念ながら短かった気がします。帰宅すると、チャチャ丸は待ってましたとばかりに走り回り、長い間の留守番を埋めるように、構ってくれというお出迎えでした。

 

この期間、出来るだけ長い間散歩をしてあげて、おやつもたくさんあげていました。

チャチャ丸のしっぽを握って以来、呼んでも、おやつで釣っても、そばに近寄らなくなり、そのくせ、それを淋しそうにしていたあの父はもういないんだよ、と語りかけながら。

 

次章

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