はじめに
随分昔のことです。そんな言葉を使うようになったのだなぁと、自分自身の年齢にびっくりするこの頃です。
新型コロナウィルス禍の期間、家で過ごす時間が出来たおかげで整理をしていました。これまで人生を変えてくれたとき、いつも「言葉」がありました。
そんな私が英語を学び始めるきっかけとなったことがありました。時間があるうちに、記憶があるうちに、少し書き残してみようと思いました。
通称「国際研修センター」
小学生の頃になると、午前6時30分から近くの公園を走るのが、我が家の朝の決まりでした。まだまだ寝ていたい小学生としては、とてもイヤだった「1日の始まりのこと」になっていました。
低学年の頃だったと思います。公園の近くに大きな施設が完成しました。近所や同級生との間では、通称「国際研修センター」と呼んでいました。どうも聞いた話だと、海外各地から日本を学びに来る方々が宿泊する施設、ということでした。インターネットのない時代、この施設が何のためにあるのか、調べることもできず、ただ伝聞を信じる外ありませんでした。
増える異邦人
当時(1980年後半)では、「海外」はまだまだ敷居が高く、私には縁のない世界だと思っていました。それが急に変わることになりました。街に、肌の色や顔、異なる言葉を話す人々が徐々に増えていきました。
特に私の家は、その国際研修センターと最寄りのスーパーの間にありました。自然と、家の前を通る異邦人の数が増えていきました。そして、どんどんとそれが日常になっていきました。
異なる文化
異国からの方々が増えてきたといえど、文化はそんな簡単には変わりません。
当時、宮崎勤による東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件もあり、知らない人に声を掛けられても応えるな、という学校を通じた警察からのお達しもありました。
そんな時代背景の中、少年野球チームに所属していた私は、家の前で素振りしているだけで、わからない言葉で話しかけられることに戸惑っていました。挨拶だけであれば良いだろう、とはいっても、Hi! すら小学生には異国の言葉、応えたところで、その先に続く会話はさらにわかりませんでした。
ケツバット事件
近所も国際研修センターの存在、異邦人のある景色に少しずつ慣れてきていました。かといって、英語が堪能な方がいるわけでもありません。「言葉の通じがない方々が通ることがある」ということや、「HiやHelloと言われたら、HiやHelloと返せば良い」という程度の認識で日々を送っていました。
私は小学4年生になり、少年野球チームのキャプテンになっていました。土曜日は午前中の学校から帰ってきたらすぐ、午後からは練習でした。当時はまだ週休2日ではなかったのです。少年野球チーム練習をしていた場所も、某大学跡地を勝手に使っているような、良い加減があった時代でした。
ユニフォームに着替えて、さぁ出発!バットとグローブを物置から出してきて・・・、というところで、黒人で長身の方が私の前に立ちはだかりました。何か話しかけてくれているのはわかるのですが、HiやHelloではなく、小学4年生の私は何も出来ずにただ終わるのを待っていました。
某大学跡地までは家から最低でも10分かかります。練習時間が迫りますが、愛想笑いをしても逃してくれません。練習開始時間は過ぎ、諦めを感じ始めました。
長く接しているうちに、国際研修センターの○○○号室に滞在しているからいつでも遊びにおいで、ということを伝えたがっているということがなんとなくわかってきました。とりあえずこの場を乗り切るためにうなずくも、「忘れないように書いて渡すから紙とペンを」というやり取りが始まり、また10分が過ぎていきました。
ようやく解放されたのは、練習開始30分後でした。急いで某大学跡地へ向かうと、チームメイトが向けるクスクスといったような笑顔。
そして、
たるんでるからだ!
という監督の怒号と、お尻をバットで叩かれるケツバットの刑という、理不尽なお出迎え付きでした。
絶対にあの国際研修センターには遊びに行かない、と決めた日でした。
社会科訪問
国際研修センターは、小学校にとって社会科授業の格好のネタでした。小学5年生になり、社会科訪問ををしました。世界中から訪問し、滞在している方々が自国の紹介をしてくれるブースを作ってくれて待っていました。世界はこれほどにも多様性があるということを感じながらも、別世界の話をされているようで実感は湧かない、不思議な体験をしました。
出身はどこでしょう?
小グループに分かれ、通訳さんを介して会話をする機会がありました。
その中で、
私たちはどこから来たでしょう?
という質問に対し
イラクかサウジアラビアではないでしょうか
と回答しました。
当たりです。なぜわかったのですか?
と聞かれました。
当時、湾岸戦争の報道でよく見ていたサダム・フセイン大統領に似ているから、とは子供であってもマズいだろうと思い、答えられませんでした。
流暢な英語
社会科訪問も終わりの時間になりました。最後に生徒代表で挨拶文を英語で読み上げる女子がいました。小学5年生のクラス替えのタイミングで転校してきた、海外で育った女子でした。今思えば、商社・生命保険等の社宅が多くある小学校だったので、転入や転出は多い方だったかもしれません。
普段、物静かなその子から出てくる「英語」は、字幕で追うのがやっとの洋画から聞こえてくる英語そのものでした。日本でネイティブな発音をすると、周囲は「カッコつけている」と嘲笑する傾向がありました。これは今もそうかもしれません。それがゆえ、小学校で英語を話している姿を見ることがなかったので、私はただ純粋に「カッコいい!」と思いました。
ですが、このことが発端で彼女に対するいじめが女子の間で始まった、という話も、小学校を卒業したあとで聞きました。中学校に入ってから全く同じことが別の子でも起きました。
日本の教育はカリキュラムこそしっかりしているように見えますが、英語を話せるようにならない理由を、このとき知りました。
ランニングともだち
小学校6年生になると、朝のランニングの中で会う国際研修センターの人たちは「いつものメンバー」になっていました。その中で、私の母と私と共に一緒に走っていた人がいました。ハンガリー出身と聞いても地図上で位置を確かめることしか出来ませんでした。
私の母は英語は話せません。にもかかわらず、堂々と人と交わる度胸があったようです。まるでその姿は出川哲朗さんのようだったことを記憶しています。日本語英語から単語を少し含む程度のほとんど日本語でこちらから話しかけ、彼女は英語で返す。公園で毎朝会う仲間の中で、英語が少し話せる日本人の方が時々入ってくださる。不思議な朝の時間に変わっていきました。
1年くらい続いた朝の時間、彼女から帰国する日がきた、と伝えられました。不思議なもので、彼女との日々が、英語耳を作ってくれたことで、わずかですが話せるようにもなっていました。
お別れの日
いよいよ、彼女の帰国日がやってきました。
その日の朝、3人で一緒に写真を撮りました。その写真は、いまだに覚えています。
あの頃、共に過ごした時間が凝縮されていました。
そして、彼女の住所を手渡してくれました。
いつか、手紙を書いてね、と伝えてくれました。
外国の住所の表記の仕方も知らず、本当に住所なのかもわからなかった小学6年生から大切に持っていました。
彼女はハンガリーに帰国していきました。
初めての国際郵便
元気かな?と思っていたある日、ハンガリーに帰国した彼女から手紙が届きました。人生で初めての、国際郵便でした。
1992年10月18日当時、私はこの英語を読むことも出来ませんでした。知り合いの人に読んでもらうことは出来ましたが、英語で返すことは出来ませんでした。
いつかこの手紙に返信出来るようになろう
それが英語を学ぼうと思った原点でした。
それから
私は中学生になり、通訳になることを夢見て、日々勉強を続けました。
その後、通訳ではありませんでしたが、英語を1つのスキルとして生きる道を、今も進んでいます。
新型コロナウィルス禍のふとした時間の中で、外資系企業で働いていたときの上司からの手紙を見返したりしていました。
そのとき、彼女からの手紙を見つけました。
あのとき、英語を学ぶきっかけとなった彼女は、今、何をしているだろうか。
そういえば、私は手紙を返していなかった。
30年間、忘れていました。それを思い出しました。
30年ぶりの再会
30年の間に世界は変わりました。
手紙を書く人は極限まで減り、Eメールを送受信する人も少なくなっています。そんな中で手紙を書くべきか。彼女は今もくれた紙に記されている住所にいるだろうか。可能性は低いかもしれない、30年は、そう思えるほどの時間でした。
30年前に異国で会った子供から手紙が届いたら・・・。
まるでBack To The Futureのマーティとドクのようなことが起きるかもしれない。
覚えていないかもしれない。
ふとひらめいたのが、Facebookで探してみる、ということでした。
ハンガリー語の綴りを打てるわけではありませんでしたので、自信はありませんでした。
フルネームを英語で探してみました。
30年前に会った彼女の面影を残した顔写真が1件ヒットしました。
そして、メッセージを送りました。
彼女でした。
覚えていてくれました。
お別れの日、青いスカーフをプレゼントしたこと。すっかり忘れていました。
最後に撮った写真、彼女はそのスカーフを付けてくれたこと。手元にない写真を補完して、30年越しでようやく伝えることが出来ました。
あなたは、私に英語を学ぶことを教えてくれた人です。
ありがとう。
と。
さいごに
それ以降、彼女とはFacebookで近況を伝え合っています。ちなみに、「彼女」と書いていますが、甘酸っぱいほどの初恋相手ではありません。笑 当時私は10歳、彼女は30歳は越えていたと思います。
彼女が教えてくれた、英語というツールで繋がることの出来る世界の広さ、その入り口。そこからの未来、30年後の人生は劇的に違った世界であったこと。
出会いに感謝するとともに、もしこれを読んでくださった方の英語を学ぶきっかけの一助になればと思い、このブログを残します。
実家に行ったときに、30年前に撮った彼女との写真を見つけて、ここに残したいと思います。
コメント